「伊藤さん。また数字間違ってますよ。明日使う書類なんですぐに直してください」
数枚の書類を目の前に突き出しながら、正社員の木戸さんは少し怒った口調で伝えてきた。
時計に目をやると17:00を過ぎていた。
「あ、あの申し訳ありません。あの、これから保育園のお迎えがあって、あの今から直すと間に合わなくて・・・あの」
「はーっ」
木戸さんは大きなため息をついてからくるりと向きを変え、別の人に向かって言った。
「田中さん悪いけど伊藤さんの代わりに直してくれる?」
「あ、あの私、ごめんなさい、あの」
「もういいです。お迎えなんでしょ。あなたパートなんだから、どうぞ上がってください」
ビルの外に出ると風が冷たく頬を叩いた。
私が数字を間違えたのが悪いのは十分理解している。でも、木戸さんはいつも退勤間近な時に言ってくるのだ。
パートの私の書類は必ず社員の木戸さんにチェックをしてもらわなければならない。間違いがあるときほど、書類が返ってくるのが遅いのだ。
パートでいつも定時にあがる私のことがおもしろくないのだろうか?
それともケアレスミスが多い私への嫌がらせなのか。
「そんなことより、お迎え!」
私は駆け出した。
私は伊藤日菜子。29歳。
夫と3歳の娘との3人家族だ。
今はパートの事務員として働いている。
正社員になりたいが、そんなスキルもないし何より時間を長くは働けないので、パートで雇ってもらったのだ。
とは言っても今日もお迎えが遅れてしまった。
17時に上がってもギリギリなのに毎回木戸さんに何か言われて時間がおしてしまうのだ。
保育園につくと、門をあけて玄関にとびこむ。
靴を脱ぎ捨てるように上がり遅番の部屋へ急いだ。
「ひよりちゃんのお母さん、おかえりなさい」
担任の先生が近づいてきた。
「お母さんお迎え今日も遅かったですね。お約束の時間からだいぶ過ぎてるのでもう少し早く来ていただけますか?」
「あ、すいません。色々あって、あの」
「お迎えが遅いと何かあったかと心配ですから」
先生はそう言うと他の子の所に行ってしまった。
言い訳をしたかったが聞いてくれる感じもなかったので、娘の所に行った。
「ひより。帰るよ」
ひよりはおままごとの赤ちゃん人形を抱きかかえたままこちらを見ずに言った。
「や!」
私はため息をつく。
まただ。
ひよりは最近イヤイヤがひどい。
何か声をかけるたびに「イヤ」しか言わない。
何を言われてるのかわからないうちに「イヤ」と言っているように感じる。
「だめ!帰るの!おしまい!」
片付けさせようと人形に手をかけると、ひよりは激しくイヤイヤと身体を振った。人形も激しく揺れた。
隣の子にぶつかると思い、人形をひよりから引き離した。
人形を取られたと思ったのか、ひよりはあろうことか後ろにひっくり返って泣き始めた。
こうなるとひよりの耳にはもう何もとどかない。
私はひよりの汚れ物が入ったカバンをロッカーから取り出すと、ひっくり返って泣き叫ぶひよりを抱き抱えた。
重い。
暴れるひよりは更に重くなる。
暴れる手が私の腕や顔に当たる。
痛い。
「もういい加減にして!帰るって言ってるでしょ!」
身体の奥から怒りが湧いてくる。
これから家に帰って、ご飯を作り、洗濯をして、ひよりをお風呂にもいれなければならない。
なんでいうことを聞かないの?
玄関にひよりを乱暴におろした。
優しくおろす余裕なんかなかった。
強引に靴を履かせ、手を引っ張り、家路についた。
・・・・・・・・・・・
玄関を開けると真っ暗だった。
まただ。
玄関やリビングの電気をつけながら奥の部屋に行く。
「ねー、リビングの電気くらいつけておいてよ!言ってるでしょ!」
花柄の壁紙の部屋には夫がいた。
将来ひよりの部屋になるはずのそこは、今は夫のテレワークの場所になっていた。
まだひよりの物が少ないのをいいことに、夫は自分のものをどんどん運びこんでいる。
「なんだよ、帰るなり怒鳴るなよ。仕事してたんだから仕方ないだろ」
「電気くらいつけておいてよ!っていうか何時まで仕事なの?ひよりをお風呂にいれてよ」
イライラが言葉にでてしまう。
「風呂?あーだめだめ、まだ仕事終わらないから。メシできたら教えて」
立ち上がった夫は私を押し出すようにしてドアをしめた。
「仕事が終わらない?私にお風呂も食事の準備もやれっていうの?」
夫には聞こえない小さな声でつぶやいた。
玄関に行くとひよりが座りこんでいた。
まだぐずりが続いているのだ。
玄関にいては風邪をひいてしまう。
私はひよりを後ろから抱きかかえてリビングに移動した。
ひよりはものすごい勢いで足をバタつかせて嫌がっている。
「やめて!あぶない!おちるよ!」
つい声が大きくなってしまう。
ひよりをソファーにつれていき、乱暴に座らせた。
「もういい加減にして!ママは忙しいの!」
頭の中ではこれからやる家事の段取りと、夫への不満と、何故か木戸さんの怒った顔が混ざりに混ざってぐちゃぐちゃになっていた。
ひよりの汚れ物を洗濯機に入れて蓋を乱暴に締めながら私は一人叫んでいた。
「もう!もう!もう!もーう!」
リビングからはひよりの泣き叫ぶ声が響いている。
うちは、毎日毎日毎日こうなってしまう。
毎日毎日毎日。
私は
こうなってしまうのだ。
お母さんが泣いた日2へ続く
この物語はフィクションです