「改めまして、児童相談所の児童福祉士田中です」
「同じく児童福祉士の山口です」
4人で頭を下げ合う。
「今日は伊藤さんのご家庭のことや、ひよりちゃんのことについてお話しを伺わせてくださいね」
田中さんはファイルを開きながら話はじめる。
そこから、ひよりが生まれた時の話から始まって、毎日の過ごし方、ひよりの様子などを事細かく話していった。
特に困っていることの話になると力が入ってしまい、声も大きくなってしまった。
ほとんどの内容は私が話した。
「お父さんはひよりちゃんの今の様子をどう思っていますか?」
ひよりのイヤイヤがすごいという話になった時に田中さんが夫にたずねた。
「え、あー、よく泣くしなんでもイヤイヤって拒否しますね」
「お父さんはその時どうされるんですか?」
「・・・」
夫は返答に困って口を閉ざしてしまった。
そりゃそうだ。言えるわけがない。
夫は何もしていないのだから。
何も言えない夫を見て田中さんは軽く頷きながら、今度は私に向いて話し始めた。
「お母さん。今まで本当に頑張って来られましたね」
思いがけない言葉に思わず「え?」と聞き返してしまった。
「ひよりちゃんはこだわりが強いお子さんだなとお見受けしました。まだひよりちゃんをしっかりと見たわけではありませんがお母さんのお話から推測すると、さまざまな場面で、育てにくいと感じることが多いのではないかと思います」
「・・・育てにくい・・・」
田中さんの言葉を思わず繰り返す。
「ひよりちゃんに障害があるとかないとかということではなく、性格的にとても感情の起伏が激しいのかなと感じられました。もちろんその影に障害のようなものが隠れている場合もあります。これはもっと見ていかないとわかりません。でも、例えば背が高い・低いの違いのようにみんな違う個性のような中で、ひよりちゃんはとても気が強いのかなと思います」
「そうなんです。ひよりは頑固というか、怒りっぽいというか、なんていうか・・・」
「そうですよね、こだわりが強いために、お母さんがこうして欲しいなと思うことがひよりちゃんには通用しないんですね」
わかってもらえた気がして私は何度も頷いた。
「今までのお母さんの苦労は察して余りあります。世の中の虐待は色々な原因がありますが、このこだわりの強いお子さんとの関わりがうまくいかずに、残念な結果になることが多いのですよ。でもお母さんはそうならなかったですよね」
「でも私・・・そんな・・・怒鳴っちゃったし・・・」
「そうね、大きな声が出ちゃいましたよね。でもひよりちゃんを叩かないでくれてありがとう。ご飯も根気よく食べさせてくれてありがとう。お肌もつやつやしてたわ、毎晩ひよりちゃんのお肌にケアしてくれていたのよね?忙しくて辛い中本当にありがとう」
「私・・・」
私の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
一粒こぼれたかと思ったら、次々と涙が溢れて止まらなくなった。
今まで、ひよりが生まれてから今この時まで、誰も私にありがとうなんて言ってくれたことはなかった。
お母さんなら出来て当たり前、出来ないのがおかしい。
そんな風に言われているような毎日だった。
涙は止まらず、子供のように鳴き声が出てしまいそうになるのを必死に抑えようとした。
「お母さん、いっぱい泣いていいよ。頑張ったんだもん。頑張ってくれて本当にありがとうね」
私は大きな声で泣きじゃくった。
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「お父さん。お父さんはこれから大切な仕事が待っていますよ」
私が急に泣き出して焦ったのか夫はおろおろと私を見ていた。
「お母さんは今まで、大きな荷物を抱えて、全速力で走って来ました。でも今息が切れて苦しいんです。とてもとても苦しいんです。その荷物をお父さんも背負わなければなりませんよ」
心なしか最後の言葉がきつくなったように感じる。
「私は今お母さんに本当に感謝しています。ここまで頑張ってくれたお母さんにです。お父さんはどうですか?お母さんの今までの頑張りをどう思いますか?」
「あ・・・なんかそんなこと考えたことなくて・・・」
ハンカチに顔を伏せていても、夫が焦っているのがわかった。
「いいんですよ。今から始めればいいんです。お母さんが今まで頑張って来たこと、毎日こなしていたこと、お父さんと分け合っていきませんか?」
「分け合う・・・」
「そうです。ひよりちゃんのこと、おうちのこと、全て二人で分け合って支え合うんです。
特にひよりちゃんは手をかけてあげなければならない場面がとても多いのですから。
一人がひよりちゃんに手をかけているときには、もう一人が家事をする。ひよりちゃんが荒れて手がつけられない時はもう一人が変わって声をかけてみる・・・そんな感じです」
「はい」
夫は小さな声で返事をした。
「それからお母さんにちょっとお休みが必要なのかどうか、受診をされるのも良いかと思います。または実家のご両親など助けが必要な時に来てくれる方がいるのか、とか、公的サービスで利用できることがないかなど、私たちもお手伝いしますので、色々な方法を探していきましょう」
「私、病院に行くんですか?」
少し驚いて聞き返した。
「心療内科などで相談して今の心のバランスを見てもらうのもいいかなと思います。夜よく眠れるように相談するといいですね」
「・・・わかりました。あの・・・ひよりは・・・ひよりにはいつ会えますか?」
「心配ですよね。でも大丈夫ひよりちゃんは元気ですよ。お父さんとお母さんのこれからのことが決まったらひよりちゃんがおうちに帰れるか相談しましょう。何ヶ月もとかではないですよ。
まずはお母さんの受診が先かな?私たちともまた色々相談しながら決めていきましょうね」
田中さんは一度言葉を区切ると、夫に向き合った。
「お父さん、今日が再出発の日ですよ。お父さんはまず自分がするべきことをしっかりと考えてください。あれが出来ない、これも出来ないではなくて、自分がするべきことは何か、ということを考えてくださいね。大丈夫私たちがこれからも相談に乗ります。まずはお母さんを休ませてあげましょう」
「はい」
今までにないはっきりとした夫の返事を、初めて聞いたような気がした。
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児童相談所からの帰り道、夫は立ち止まって私に言った。
「俺さ、なんか、ごめん。俺ずっと楽してたんだよな。任せっきりでさ。
うまくできるかわからないけど・・・、あの・・・色々教えてください」
頭を下げる夫を見ていたら、なんだか笑いが込み上げてきた。
「あははは、謝るあなた初めて見たかも。あははは」
「あははは、そうかな」
夫も笑っている。
問題ははまだまだ山積みだ。
ひよりが帰って来ない限り、まだ笑ってはいけないのかもしれない。
でも、今日は「再出発の日」なんだ。
スタートは爽やかな方がいい。
頑張ろう。
また誰かにありがとうって言ってもらえるかもしれないから。
それがひよりだったらいいな。
終わり
この物語はフィクションです