保育に行き詰ったとき、園長先生に相談したことがあります。
園長先生はいいました。
「保育の答えというのは、保護者が出すものじゃない。子供が今、そして大きくなってから“あの先生に会いたい”と言ってくれる日が来たとき、それが答えだよ。子供が答えを出してくれるから、自信をもって保育をしなさい。」
この言葉は私の保育の支えとなっています。
ただひたすらに子供と向き合い、寄り添うことがどういうことなのか、それを今まで模索してきました。
年齢が上がるにつれて、お友達とのトラブルが増えてきます。
その中でも、K君との関わりが「保育とはなにか」考えさせられる大きな出来事でした。
Kくんは家庭の中で少し問題があり、6歳の彼はとても荒れていました。
6歳というと、周りの空気を感じ取ることができるとても多感な時期です。
K君は保育園でもトラブル続き。
いきなりお友達を叩いたり、暴れたり、保育園でトラブルが多く、「Kくんがいるから保育園に行きたくない!」という子も増え私も悩みました。
(どうしたら、彼の気持ちをわかってあげられるのか…。保育に携わる者として、K君にしてあげられることはなんだろう?)
悩んだ末、私は彼にこう言いました。
「先生ね、K君のことが大好きなの。だから同じ気持ちになりたい。誰かを叩いたり、暴れたくなったりするのよね。わかるよ。その時は先生を叩いてほしいの。先生はK君から叩かれてもちっとも痛くないし、K君がそれで少しでも気持ちが落ち着くのなら先生はそのほうがとっても嬉しい!」
するとK君は、いきなり「ワーーーー!!!」と大きな声をあげて私を叩いてきました。
何度も何度も…。
K君も感情があふれてきたのでしょう。
「先生を叩かないで!」
それを見ていたクラスのお友達が叫びました。
「ごめんね、先生がK君に頼んだの。K君だって、本当はみんなと遊びたいのに、どうしても今はできないの。だからKくんを許してあげて。」
クラスの子どもたちは、泣き出す子もいて、K君をじっと見ていました。
私を叩くK君の痛みが、K君の手を通して私に伝わってきます。
彼の悲しさ、つらさ、憤り、言葉では表すことができない感情…
私はK君の思いを間近で感じ、胸が締め付けられる思いでした。
その日から、K君は、お友達を叩かなくなりました。
見違えるように明るく、自分からお友達の輪に入り、そしてお友達もK君を仲間として受け入れるようになったのです。
彼の中で何かが吹っ切れたように思いました。
K君が卒園して数年後、突然K君が保育園を訪ねてきました。
そして私にこう言ったのです。
「先生、あの時、僕を助けてくれてありがとう。どうしてかはわからないけど、自分でも自分の気持ちを抑えることができなかった。家で色々あって、あの頃はお父さんもお母さんも嫌で自分がどこにいるのかわからなかった。家庭の中に、自分の居場所はなかったんだと思う。でも先生が、保育園で自分の居場所を作ってくれた。」
私の中に数年前の出来事がよみがえってきました。
きっとK君の小さな身体では受け止めきれないほどの大きな苦しみを彼は抱えていたはずです。
きっと毎日毎日K君は「誰か助けてほしい」「僕を愛してほしい」と心の中でSOSを発していたのでしょう。
いつもお友達とトラブルを抱えていたK君。
いつも癇癪を起して暴れていたK君。
けれど今、私の目の前にいる彼は、あの時のK君とは想像がつかないくらい、明るくいきいきと輝いて見えます。
あの時、全身でKくんの気持ちを受け止めることができて、本当に良かった…と、改めて自分の保育の在り方を見直すきっかけになりました。
「保育の答えは、子供が出してくれるー。」
Kくんの事例を通して、園長先生の言葉を思い出しました。
保育園でよくトラブルを起こす子供を、ただの“問題児”ととらえるのか、子供の心の根底にあるメッセージを汲み取り、保育に活かすかー。
それによって、子供の人生は大きく変化してきます。
「あの時、僕を認めてくれたー。」
その子供の思いが、自己肯定感につながり、今後の子供の人生の糧になるのではないかと私は思うのです。
そして同時に、私も、子供と一緒に育てられた…そんな気がしてなりません。
子供の育ちとは、共に育ちあうことなのだとつくづく思いました。