まだ保育士として数年目の私は気持ちに余裕を持てていたかというとそうではなく先輩の保育士の視線を意識しながら怪我のないように安全に保育をしなければいけないというプレッシャーの中仕事をしていました。その時の自分は、子どもたちが私の話を聞いてくれる指示通りに動いてくれることが良い保育士であるという認識でありました。
日々の保育をうまくこなせなければ…子供たちに私の話をちゃんと聞いて理解してほしい…と自分のことばかりの保育であり今思い返すと子供たちにとって良かったのかと考えさせられるような保育でした。
そんな気持ちでのある一場面です。
帰りの身支度を済ませた子が順番に集まり帰りの会を行っていた時のこと。
ピアノを弾きお帰りの歌を歌っていましたが、少し音がずれて間違えてしまいました。そこから子供たちの笑いスイッチが入り「しずかにして」という私の注意の言葉も入らないほど…
「せんせいのピアノへんなの」と一人いうと今まで笑っていなかった子たちも「へんなの」と言って笑い始め収集がつかなくなりました。
帰りの会をちゃんとできなかった。明日の予定を子供たちに伝えたかったのにこのふざけた雰囲気では話が耳に入ってこない…どうしたらいいのか。と未熟であった私は一方的に子どもたちに声色を変えて大きな声で押さえつけるように静止することしかできませんでした。
うつむきながら悲しそうな表情をするこどもたち。
あー子どもたちにこんな顔をさせてしまう私は保育士に向いていないのかなともうその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいであった時一人の子が私に対して
「まちがえちゃうこと、あるよね。なんもおかしくない」と言ってくれたのでした。
大人のようなその発言に私はびっくり。その子の一言で次々に他の子どもたちが「へんなのーわらうの」と言い笑っていた子たちが静かになりました。
その子のおかげで間違えることは全然おかしいことではないとみんなが理解をしてくれたように感じ子どもたちに助けられた場面でもありました。
20歳くらいの年齢の私が4歳の言葉に救われるなんて、思いもしませんでした。
まだまだ未熟であった自分の保育は一人ひとりによりそうということを月案などでは掲げていたものの結果的には一斉保育をしていて子ども一人一人に寄り添っていたかといえばいなかったと思います。
みんなで製作を行い完成させていく、みんなで散歩に行き長距離を歩くなどの場面で一斉保育から遅れてしまう子に対して「なんでできないの」という気持ちを少なからず持っていたことは間違えありません。
製作が苦手な子もいる。時間がかかってうまくノリで貼れない子もいる。みんなが同じ完成になることがすべてではありません。うまくできない時間がかかってしまう子には苦手意識が生まれないように保育士がついてフォローをしていくことが大切でした。
散歩に行くときも途中で眠くなって歩けなくなってしまう子もいる。なぜ歩けないのかと子どもに注意をする前に家での生活リズムはどうなのか、見返して日中子どもたちが負担がなく過ごせるように保護者へお願いをすることが保育士としての役割であると思います。
人には苦手なことと得意なことが誰にでもありそれを個性と受け止めて子どもたちに接していくことが大切なんだとなにげなく4歳の子供が発した言葉に考えさせられた瞬間でありました。
誰だって完璧な人間ではないし間違えや失敗をするものです。それは大人や子供でも関係もなく…。子供たちも成長の途中でもあります。そんなときにマイナスな言葉かけではなく子供たちにそんなときもあるよねと寄り添える言葉が救いになるのだと子どもたちから教わった一場面でした。