抱っこのイス


日々子育てに奮闘している親たち。
保育士は親の本当の気持ちを理解しているでしょうか?
じゃあ、理解したそのあとは?
今回はママになった気持ちで読んでみてください。

 

私はみんなにMくんママと呼ばれている。
初めて産んだMは、可愛い赤ちゃんの時はいつのまにか過ぎてしまい、今はイヤイヤ期真っ盛りの3歳児。
今日もMのために駅からの道を急ぎ足で園に向かう。

私の仕事はずっと立ち仕事の販売員。
今日もお客様のクレームを受けてしまい、挙句上司のお小言で昼休みが終わってしまった。
職場には足を伸ばして座れる場所なんてないけれど、それでも休憩はとりたかったな。
売り上げ報告の事務もたまっているけれど、残業なんてできるわけがない。

どの時間でその仕事を片付けようと考えながら、頭の半分では夕食の献立がぐるぐる回る。
あーもう、レトルトのカレーで済ませたい。
あ、お弁当買って帰れば洗い物もしなくていいのになあ。
目の端に見えるお弁当屋さんを見ながら、そんなことを考える。

スマホを引っ張り出して時間を見ると、お迎え約束5分前。
やっばーい。今日の遅番誰だろう。A先生だと時間厳しいんだよなー。
あーとにかく走ろう。
立ちっぱなしだった足がひどく痛む。

 

「ただいま~」
なんとか時間ギリギリに園に飛び込む。

ウォールポケットからクラス便りを取る。
ちらっと【バランスの良い食事を】という文字が見えた。
はいはい。

レトルトカレーは、たまにしかしませんよ?
さっきの自分を思い出しながら言い訳のような独り言。
好き嫌いの多いMは、作ったって食べないんだけどね。

あ、遅番担任のS先生だった、A先生じゃなくてよかった。
「お母さん、ちょっといいですか?」
S先生がそっと寄って来る。

あーまたかな。
イヤイヤ期のMは最近お友達とのトラブルが多い。
またやっちゃいました?
あ、ちょっと今の言い方投げやりになっちゃった。

「お友達とおもちゃの取り合いで叩いてしまって・・・」
M!!叩いちゃダメよってママ言ったでしょ。

まだそばに寄ってもこないMに遠くから怒鳴ってしまう。
「お母さん。止められなかった私たちが悪いんです。Mくんいっぱい抱っこしてあげてくださいね」

だって!!という言葉をぐっと飲み込む。
家に帰ってからの戦争状態を先生に話したってわかってなんかもらえない。
あの家事の忙しさと、Mのわがままと、散らかった家の惨状の中のどこでMをだっこすればいいのか。
教えて欲しかった。

【バランスのいい食事を】のお便りを通園バックに乱暴に突っ込みながら「わかりました」というのが精一杯だった。
もう一刻も早く帰りたい。
帰って家事も世話も全部終わらせてベッドに入りたい。
M帰るよ!!
声がますます荒くなるのに、Mは一向に帰ろうとしない。
もうイヤだ。
Mを抱きかかえようとしたとき、先生がMに話しかけた。

「Mくん。ほら、抱っこのイス」
なに?ダッコノイス?
意味がわからないでいるとMが急に目を輝かせて私の手を引っ張った。
??でついていくと、玄関ホールに小さいソファーが置いてあった。
さっき通ったのに全然気がつかなかった。
見ると小さいテーブルに絵本と、折り紙の花が飾ってある。

Mはソファーに駆け寄って座ろうとする。
「Mくーん。カバン持ってきてからね」
先生が言うとMは急いでカバンを取りに走る。

「お母さん。これね、抱っこのイスなんです。今日置いたんですよ。
ここにMくんと座ってちょっと休んでくださいね。
お母さん立ちっぱなしだから足パンパンでしょ?
家帰ってもすぐご飯の準備でしょ?
絵本もありますよ。
お茶はないですけどね。えへへ。楽しく休憩してくださいね」
先生は小さいクッションをポンポンとするとソファーにおいてくれた。

カバンを持ってMが戻ってきた。
「Mくん、お母さんがおーしーまいって言ったら、帰る時間ね?」
先生が言うとMは大きくうなずいた。
あら、珍しく素直だわ。

Mと一緒にソファーに腰を下ろす。
古っぽい小さいソファーだけどいい座り心地だ。
ずっと酷使してた足が一気に緩む。
思わず「はーーっ」と声がでる。

Mが隣から私の膝によじ登って来る。
よいしょと抱えあげるとずしっと重さがくる。
あれ?重いな。
こんなに重かった?

Mの重みを感じながら
あー最近ちゃんと抱っこしてなかったかもな。
Mもイヤイヤばっかりでなんか喧嘩みたいな毎日だったかも。

Mの頭にそっと自分の顎を乗せる。
汗臭い香りに思わずふふふと笑ってしまう。

「今日いっぱい遊んだの?」いつになく優しい声が出た。
「よーいドンしたよ。あのね、Mねいっちばーんってなったの。先生がね、はやーいってね言ったの」
嬉しそうに話すMの話は止まらない。
いっぱい話すことあったんだね。
なんかちょっと忘れてた時間だね。

家にだってソファーはあるけれど、忙しくて一緒に座ることもほとんどないもんな。
あ、脱いだ服が折り重なって座れないか・・・。
この小さなソファー。
すごく休まるなー。
なんだか私もMもゆったりした気持ちになるみたいだ。
二人で体の力を抜いて背もたれに体を預けると、このまま眠れそうな気がする。

5分ほどゆったりしていたら、同じクラスのKちゃんがお母さんとソファーに向かってきた。
M今日はおーしーまい。
Mはちょっと不服そうな顔をしたけれどKちゃんの顔を見ると「いいよー」とソファーを降りた。

もうカバンもあるのであとは目の前の玄関で靴を履くだけだ。
あ、場所も考えられてるんだ。
ふと、そんなことに気がつく。

家にいたらMのイヤイヤと戦いながらあっという間に過ぎちゃう5分だけど、こうやって抱っこして過ごす5分はなんかこう、くすぐったい感じがする。
靴を履くとほんの少しだけ、足が軽くなったような気がした。
ううん。軽くなったのは心かな?

 

Mおうちに帰ったらさー、ママおいしいご飯作るね。
先生くれたお手紙になんかおいしいの書いてあるかな?
あとで一緒に見ようね。
「うん」
いつになく元気なMの返事を聞きながら保育室の方を見るとS先生がとびっきりの笑顔でこちらを見ていた。

明日先生に抱っこのイスのこと聞いてみよう。
どこからやってきたのかな?って。
そう思いながら、あ、A先生が遅番だったらどうしようと心配する自分がおかしくて仕方がなかった。
帰り道も楽しく帰れそうだね、M。

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