「地震雷火事親父」と昔から言われるのをご存知ですか?
これは「誰にとっても怖いもの」を表しています。
天災はいつの時代でも恐ろしいものですが、最近は「親父」は怖いものに入っているのでしょうか?
ちょっと疑問です。
子供にとっての怖いもの
大人だってそうですが「おばけ」は怖いですよね。
よく年長クラスが「おばけ屋敷」をやって小さい子を招待しました。
子供のやるおばけなので、大人から見ると怖くはないのですが、小さい子は泣いてしまうこともありました。
ある時、
「怖がらせるようなものを保育に取り入れていいのか」
という議論が起こりました。
子供の(小さい子達の)心に傷を作ってしまうのではないかという問題提起でした。
それに合わせて、節分の「おに」も、職員が扮装してまでやる必要があるのか? という話にもなりました。
さらに、クリスマスのサンタで泣く子だっているという話にまで発展したように覚えています。
その時は、
「怖いものから守ってあげるべきだ」
という意見と、
「怖いものの存在も子供にとって大切なものだ」
という意見に別れました。
結論から言うと、
「今まで通りお化け屋敷も、節分の鬼もやるけれども、怖がらせないような工夫をする」
ということに落ち着きました。
(ちなみにサンタは職員が帽子をかぶる程度にしようということになりました)
皆さんなら、この問題にどんな意見を持つでしょうか?
怖さの意味
もちろん一生トラウマになってしまうような怖がらせ方は論外ですが、保育園の行事という配慮された中で行う怖いことは、とても大切な意味があると、私は考えています。
お化け屋敷のような「びっくりさせられる」楽しさは、足を踏み入れるのに少し勇気が必要ですよね。
みんなで手を繋いでドキドキしながら進む暗闇。
ゴールした時の安堵感は小さい達成感にもつながりますね。
もちろん、入りたくない子は入らなくてもいいと思います。
「いつかは入りたいな」と思うのもまた良い経験です。
単純に「ドキドキを楽しむ」という気持ちでいいのではないでしょうか。
節分の鬼は、その由来を知らせ、伝統的な文化を楽しむものです。
「鬼」は自分の心の中にある、「ずるい気持ちや弱い心など」の象徴でありそれを豆で追い払うという話を毎回してから行っていました。
私は、「鬼」は怖くなくっちゃと思っています。
そして必ず頭を抱えて去っていくものです。
秋田のなまはげなどは怖いどころではないですよね。
怖いから排除するのではなく、その意味を大切に伝えていくことも私たちの役割だと思います。
大人になってからも
人にとっての「怖いもの」は、時として抑止力になることがあります。
誰も見ていない、絶対にバレない、今なら悪いことができる!!
そんな風に魔が差してしまった時に、心の中にいる怖いものが騒ぎ出します。
それは、「鬼」かもしれないし「神様」かもしれないし、「親父」かもしれません。
心の中にその「怖いもの」「恐れるもの」がある人は
きっとゴミをポイ捨てすることすら躊躇すると思います。
今の時代、その「怖いもの」がなくなってきてるのかもしれません。
ぜひ一度考えて見てください。
トラウマではなく、「畏怖」として心の中に存在するものを、与えられる手段が何かあるはずです。